いつの時代も環境と調和し、
食に感謝できる豊かな社会づくりに貢献します。
中華・高橋は、創業から70年以上にわたり、フカヒレと中華料理がもたらす
楽しく豊かな生活の実現を目指して多くのことに挑戦してきました。
これからも変わらぬ想いを胸に日々精進し続けます。
[ 商品 ]
[ 歴史 ]
1953年
「株式会社高橋商店」を設立
1963年
株式会社中華・高橋に社名変更
酒類販売免許を取得
農畜産/水産/缶詰等の販売および貿易業務の開始
1975年
仙台営業所開設
フカヒレの変遷「缶詰フカヒレ」
1980年代
1985年
創業の地、日本橋箱崎町に本社ビル落成
1988年
東京江東区三好に営業センター開設香港/広州/台湾から料理人を招き、日本の料理人を対象とした「創作メニュー研究会」を開始
1989年
香港に中華高橋香港有限公司を設立
1992年
中国遼寧省で、フカヒレの来料加工を開始
フカヒレの変遷「レトルトフカヒレ」
1990年代後半
1995年
北京前門大街に、世界最大級のジンベイザメを掲げたレストラン「高橋軒」を設立
1996年
上海華堂高橋食品有限公司を設立
上海を中心にフカヒレの販売を開始
日本初 胸ビレの排翅が誕生!
「福建式排翅」1998年
当社初のサメ肉製品
「シャークナゲット」発売2002年
2004年
産学連携による実用化開発研究事業として、サメ肉の研究開発に本格的に着手
日本初・無濾過タイプの紹興酒
「紅琥珀」発売2006年
2008年
インドネシアのスラバヤに現地法人
PT.CHUKA-TAKAHASHIINDONESIAを設立
2011年
東日本大震災の発生を受けて、
ふかふか村が操業停止
人気店の味をどこででも
「あつらえ厨房シリーズ」発売2013年
中華総菜の開発製造拠点として
「C’s Kitchen」を設立中華料理ファンを増やすためのウェブメディア「80C(ハオチー)」を開始
中華業界の若手シェフの成長支援プログラム
「わかば食堂」開始
絶妙バランスの薄衣!
「海老フリッター」発売2016年
時短調理を可能に!
「てまなしモウカ排翅」発売2021年
高橋商店
「株式会社高橋商店」の設立
戦後、中国から引き上げてきた創業者髙橋正は、中国駐在時にお世話になった中国人たちに恩を感じ、中国に関わる事業を興したいと考えていました。とはいえこの時代、やりたいことを選ぶゆとりもなく、たまたまご縁のあった築地の乾物卸業者から干貝柱の小分けの仕事をいただき高橋商店を創業。
その後、フカヒレも取り扱ってほしいとの依頼を受けた正は、販売先もわからぬままに二つ返事で引き受けます。その当時、田村町(現在の新橋付近)には多くの高級中国料理店が軒を連ねており、正はそこに目をつけ足繁く通いはじめます。幸運なことに、そこで働く料理長たちは皆、中国から来日したての中国人たちばかり。中国人に恩返しをしたいと考えていた正は、持ち前の堪能な中国語を活かし日本に不慣れな料理長たちの信頼を得ていきました。
こうして高橋商店はフカヒレ卸売事業を開始し、現在の中華・高橋の事業の礎を築き始めるのです。
乾物から加工品へ
当たり前だった丸干
江戸時代に清との交易から始まったフカヒレの流通において、その主役の座を守り続けてきたのが『丸干』と呼ばれる皮付きのまま乾燥させただけのフカヒレ。中華・高橋においても創業から商いの中心はこの丸干で、お届けした先のレストランでは1週間以上かかる下処理をしたのち調理をするというのが当たり前でした。
フカヒレ悪臭事件
1980年代初頭、その流れに大きな変化をもたらす出来事が起きます。都内のあるホテルでフカヒレを戻す際の臭いが館内に充満してしまったのです。その場に居合わせた総支配人が「なんというひどい臭いだ、こんな作業はすぐ止めなさい!」と。私たちはホテルに呼び出され、この臭いの出る工程全てをそちらでやるようにと指示をされます。
フカヒレ水煮缶の誕生
シェフたちから手ほどきを受けながら、中華・高橋の歴史上初の加工品への挑戦が始まります。このとき開発されたのがフカヒレの水煮缶詰。本来、一俵60kgの原料から約40缶できるのですが、初めて試作した時にできたのはたったの1缶。それから半年の月日を経て、第一号のフカヒレ水煮缶詰(排翅缶)が誕生し納品されたのです。
丸干はこだわり食材へ
その後、よりコンパクトに流通させられる冷凍排翅、常温で1枚から購入できるレトルト排翅といった具合に次々と使いやすい製品へと進化をしていき、2000年を迎えたときには、『丸干』はこだわったシェフだけが使う特別なものへと変わっていったのです。
中国料理の友
一流料理人が腕を振るう料理教室
『WU XIAN』と名付られた隠れ家のようなマンションの一室で始まった料理教室は、日本を代表する一流料理人とその料理に期待を膨らませる舌の肥えた客人とが真剣に向き合う、さながら私房菜の雰囲気でした。
講師として腕を振るうのは、中華・高橋が日頃よりお世話になっているシェフたち。月5回の開催で、5人のシェフがそれぞれ1回の講師を担当。客人となる生徒が好みのシェフを都度選び申し込める人気投票のような仕組みだったこともあり、緊張した方も少なくなかったようです。
それには生徒であるお客様のレベルも大きく影響していたかもしれません。多くは料理研究家やジャーナリスト、編集者、料理人、食品メーカーの開発担当者など、食を生業とするこちらもプロフェッショナルだったのです。
こうして30年以上続いてきた中国料理の友で積み上げられたレシピは約5,000を数え、現在の冷凍総菜事業の商品開発に大きく役立てられています。
オイスターエキス
35年以上のロングセラー
「オイスターエキス」
100%ピュアなエキスで35年以上のロングセラー。牡蠣のまろやかな旨みとコクが凝縮されており、繊細な味の表現を求めるプロに愛されている商品です。
一般的なオイスターソースが醤油、みりん、砂糖、液糖等を加えて調味されているのに対し、”オイスターエキス”は中華のプロが愛用する「だしの素」。生牡蠣のみを原料にした、シンプルな牡蠣エキスです。
製造を手掛けているのは、広島県広島市にあるカクサン食品株式会社。雑味を入れないため殻のままではなくむき身にしたものをボイルする、原料の牡蠣は1粒20g~30g程もある丸々と太った大粒のもののみ、など、原料と製造方法には独自のこだわりが。
35年前、当時社長だった二代目國昭がその香りとコクに驚き、中華・高橋初のPBとして誕生しました。
ひと缶455gに、大粒の牡蠣227粒
約100gのエキスを作るために使用する牡蠣の量は、なんと1kg!これは牡蠣1粒を平均20gとすると、ひと缶455gに約227粒が使われている計算です。
にわかには信じがたい量ですが、一度味わえば納得していただけるはず。口に広がる牡蠣の濃厚な旨み・芳醇な香りは、それだけの量の牡蠣を惜しげもなく使うからこそ生みだせるものです。
星付きのレストランから町場の人気ラーメン店まで、幅広いプロからご指名を頂いてきた中華・高橋のオイスターエキス。長きにわたって愛され続けている理由は、原料から製造工程まで、すべてにおいて妥協を許さないこだわりにあるのです。
華堂髙橋
中国本土で事業に挑戦!
海外へと目が向いていた二代目國昭は、中国が将来の経済大国になるであろうことを予測し、拠点づくりに乗り出します。
さっそく話として持ち上がったのが中国の中枢である人民大会堂との合弁事業。改革開放政策から10年余りが経過した頃でした。その当時、人民大会堂にとって日本の中小企業との取り組みは珍しかったようで、事業の手厚いサポートを受けながらフカヒレの製造、販売、飲食店業を展開していくこととなります。営業部門は北京の中心部にある人民大会堂のすぐそばに、製造部門は北京から1時間ほどの郊外にある良郷に、飲食店は老舗が軒を連ねる前門大街に、と誰もが羨むような立地で事業は順調に進められていきます。良郷で生産されたフカヒレの多くは、人民大会堂や釣魚台で開催されるパーティーに提供されたほか、北京飯店など市内の著名ホテル、さらに上海市内のホテルやレストランなどへも華堂ブランドとして広がっていきました。
高橋軒の営業
一方、前門大街で営業していた飲食店「高橋軒」は、1階では中華料理、2階では日本料理を提供していましたが、下町だったこともあり店前を往来するのは田舎からの出稼ぎの人々が多く、日本料理はおろか日式の中華料理ですら高嶺の花だったようで、常に店内は閑古鳥の鳴く日々が続いていました。しかし、店の軒先にだけは常に人だかりができていたのです。その人だかりの先にあるのは当時世界最大と謳われていたジンベイザメの尾ビレ。乾燥したその尾ビレは高さ2メートルほどもあり、前門大街を往来する人たちの撮影スポットとなっていたのです。(現在は、中華高橋水産 本吉工場に展示してあります)
合併事業の終焉
こうして順調かに見えた人民大会堂との合弁事業でしたが、事業が順調に進むにつれ両者の考え方に相違が生まれ始めます。小さな綻びが次第に大きな綻びに。残念ながら6年間取り組んできた合弁事業は解消することとなりましたが、その当時パートナーとしてお世話になった多くの方々とはその後も良縁としてお付き合いをさせていただいております。
散翅
即食タイプの冷凍散翅
1980年代、フカヒレスープに使われるバラバラにほぐれたフカヒレは、皮を剥いて乾燥させた“スムキ”を調理場で2日ほどかけて水戻しすることが主流でした。その手間を省くために、1990年代初頭に登場したのが冷凍散翅。乾燥のスムキから、戻し済み散翅へと進化した画期的な出来事でした。
しかし、当時の冷凍散翅は硬く、厨房で5時間ほど炊いて柔らかくしなければならないようなもの。もっと厨房の負担を軽減できないかと考えた、二代目國昭は、10分ボイルですぐに調理ができる“即食タイプ”の冷凍散翅を開発します。解凍後、長時間蒸す必要なくすぐに使える散翅は大反響を呼び、瞬く間に冷凍散翅の主役へ躍り出ることとなりました。
さらに、國昭らしさは形態にも現れています。脱水にかけ、ふわっとさせた状態で冷凍することで、解凍時のほぐしやすさや歩留まりの良さをもたらしました。
広東式・上海式・ふかふか
新しくなった即食タイプの散翅は、さらなる使いやすさを追求。料理の種類や価格帯ごとに選びやすい【広東式散翅・上海式散翅・コンソメ散翅・ふかふか散翅】の4ラインを揃えました。しかし、フランス料理でもフカヒレを浸透させたいという想いから生まれたコンソメ散翅は、日の目を見ることなく静かにその姿を消すこととなり、現在は3ラインで展開しています。
その名の通り、『広東式散翅』は広東スタイルに、『上海式散翅』は上海スタイルの調理法に合うように加工しています。『ふかふか散翅』は、フカヒレの金糸以外の部分の有効活用と、価格帯の安いマーケットでも気軽にフカヒレを使えるようにと考案された商品で、コスパが抜群です。
用途やコストに合わせて、お好みのものをお選びいただけます。ぜひ様々なシーンでご活用ください。
喜味排翅
時短調理を可能に
近年、当社のフカヒレの中でもご好評いただいているのが、”てまなしシリーズ”に代表される「味付フカヒレ」です。
非常に柔らかく蒸し上げたフカヒレに下味を付けた状態で製品にしているため、厨房での調理時間をより一層短縮することが可能となっています。
最初の味付けフカヒレ
当社最初の業務用味付けフカヒレが『喜味(シーウェイ)排翅』。残念ながらすでに終売となっている商品です。
『喜味排翅』が登場したのは、2000年代に入った頃。工場に加熱殺菌釜が導入され、レトルトフカヒレの販売を開始してから数年後のことでした。厨房での使いやすさを考えて開発された商品でしたが、時代に合わなかったのか、当時は市場に浸透させることができませんでした。
近年こそ人気の高まりを見せている当社の味付けフカヒレですが、その最初の商品である喜味排翅は、日の目を見ることなくひっそりと姿を消していたのです。
ふかふか村(本吉工場)
新たな工場立地を求めて
中華高橋水産の設立からフカヒレ製造事業は順調に推移し、瞬く間に借りていた60坪の工場では生産が追いつかなくなります。
「新しい工場を建設しよう!」。二代目國昭は、新たな工場立地を探し回ります。気仙沼にも便の良い水産加工団地がありましたが、人と同じことをやりたがらない性格の國昭は見向きもしませんでした。
ふかふか村の設立
“便利”なことよりも“心地よく働ける”工場を作りたい。その一心で探し求めた先に到達した場所が、南三陸国定公園(現 三陸復興国立公園)内に位置する太平洋を一望できる崖の上の土地。一目惚れした國昭は、すぐさま本吉町(現 気仙沼市)と掛け合い工場建設に向けた整備を進めてもらいます。
外観は、國昭が大好きだったアルハンブラ宮殿をイメージしていて、エントランスホールの造作にはスペインから職人5名を招聘し、1ヶ月半泊まり込みで仕上げてもらうほどの想いの入れようでした。
完成した工場には「ふかふか村」と名づけ、フカに付加価値をという思いを込めました。
太平洋を一望できる食堂では、今日も多くの従業員の方々が笑顔で心地良い時間を過ごしています。
福建式排翅
日本初 胸ビレの排翅が誕生!
排翅(パイツー)といえば尾ビレか背ビレというのが常識だった1990年代。革新的なものづくりの必要性を感じていた二代目國昭は、散翅の原料である胸ビレを排翅にすることを思いつきます。
ヨシキリザメの胸ビレはサメ類の中でも最も長く、軟骨が根本から先までびっしりと詰まった形状をしているため、全形を保持した加工は至難の業。何度も何度も試行錯誤を繰り返した末にようやく“袋どり”という手法を編み出します。これにより日本で初めて胸ビレから作られる綺麗な排翅が生まれました。
鳴かず飛ばずの黎明期
胸ビレの排翅の特長は二つ。尾ビレの排翅を比較すると、①デカい(同重量だと面積が2倍)、②安い(キロ単価が尾ビレの半値)。國昭はデカくて安い商品は間違いなく売れると確信していましたが、市場の反応は冷ややかでした。
「(尾ビレと形が異なるため)こんなの排翅ではない」。
バブルの余波やグルメブームに沸くこの時代、正統派と言われている尾ビレの排翅以外に目を向けてはもらえなかったのです。
運命のリーマンショック
そんな中、リーマンショックが発生。世の中は一気に不景気の波にのみこまれました。
飲食店の客単価は大きく落ち込み、中華の宴会コースの価格も半値程度に。それまで多く使われていた尾ビレではコストが厳しく全く売れない状況となりました。
そこで出番がやってきたのがこの商品。胸ビレは、尾ビレに比べると厚みは劣るものの、そのぶん面積はかなり大きくなります。そのため見栄えは抜群。尾ビレの半値程度と安価なこともあり、当時の状況と相まって人気を博すこととなりました。
丼や麺のトッピングなどのメニューに取り入れやすいうえ、ランチのフカヒレ姿煮としてもぴったり。今でも多くのお店でご活用いただいております。
日本橋古樹軒
新たな小売事業のスタート
三代目 滉は、入社後数年すると業務用に特化した事業構造に将来の不安を感じます。
ふかふか村(本吉工場)の操業によって商品開発も進み、小売へ向けた展開が進められる。そう感じた滉は、その当時フカヒレといったらスープが当たり前だった百貨店ギフトや通信販売のマーケットへ『フカヒレ姿煮』を持ち込みます。これが時代のニーズともマッチし大きな成果を生み出し、予感が確信へと変わります。
日本橋 古樹軒のオープン
二代目 國昭が亡くなるこの年、正式に屋号『日本橋 古樹軒』を冠し本社ビルに店舗もオープンさせ、業務用のみだった中華・高橋に新たな小売事業がスタートします。
“古樹軒”というこの屋号。実は、創業者 正が高橋商店時代にフカヒレの卸売事業と並んで焼売や肉まんなどの点心製造業を小さく営んでいた時に小売のブランドとして使用していた屋号だと國昭から聞かされ、惜しくも諦めざるを得なかった正の小売への想いをカタチにしたいという滉の願いから付けられました。
シャークナゲット
サメ肉の有効活用
「シャークナゲット」
フカヒレメーカーとして、フカヒレだけでなくサメ全体の活用を目指した取り組みのひとつがこのシャークナゲット。地元企業の協力を得ながら開発をおこない、子どもにも食べやすい「ナゲット」という形で商品化しました。
発売当初から生産をお願いしていた工場が震災で流されてしまい、一度は生産が完全にストップ。販売終了の危機もありましたが、新しい工場で再スタートを切り現在まで続く、当社のサメ肉製品の中でも最も息の長い商品です。
学校給食にも導入
地産地消や食育の観点から、約20年前より地元・気仙沼の学校給食にはシャークナゲットが毎月登場。今では、全国各地の水族館やレジャー施設でも販売されており、サメに触れたあとサメを食すことで、学びを深め興味を持つきっかけとなっています。
子どもの頃に「おいしい」と感じた食べものは、大人になっても好きなもの。学校給食やレジャーを通してシャークナゲットに慣れ親しんでもらうことで、大人になっても抵抗なくサメ肉を楽しんでもらえればと思います。
紅琥珀
業界初・無濾過タイプの紹興酒
当社オリジナル、業界初の無濾過タイプ紹興酒。
紹興酒に新しい価値軸を創りたいという思いから開発に乗り出した商品です。
紹興酒は、大半がブレンド品。貯蔵年数の異なる酒を混ぜ合わせて、その過半を占める酒の年数をラベルに表示しています。熟成年数に応じて価格も変わりますが、高価なものでも、表示年数100%の原酒は稀少で、多くがブレンドされているのです。
また、悲しいかな安価な紹興酒は質がよくないものも少なくありません。それを最初に飲んだ人が”紹興酒はまずい”という印象を抱き、紹興酒自体が敬遠されてしまう、という状態も見受けられました。
新しい価値軸をつくりたい
そこで、”紹興酒の世界における元来の価値軸とは異なる、新しい価値軸をつくりたい”
”もっと多くの人に好きになってもらえる紹興酒を”と考え、オリジナル紹興酒の開発をスタートさせました。
開発に際し、通常の製造工程を確認する中で、フィルターにかけて澱を取り除く作業に着目。当時人気があった日本酒からもヒントを得て、無濾過紹興酒を作ることに決めました。
長期熟成によって生まれた澱は通常2度の濾過工程を経るのですが、「紅琥珀」においては濾過ではなく長時間かけて澱を沈殿させ、その上澄1/3だけを汲み取ることで、すっきりしながらも香り高く、味わい深い紹興酒を作ることに成功。熟成年数も5年と短いため、高品質で低価格な商品となりました。
こうして生まれた『紅琥珀』は、その味わいと飲みやすさで、根強いリピーターに支えられる人気商品に。発売から今日まで、多くのお客様に愛されています。
東日本大震災
最大の危機への直面
先代より引き継いだ好調なフカヒレ事業に依存しすぎているのではないかと疑念を抱いていた三代目 滉の悪い予感が現実となります。未曾有の惨事に見舞われた気仙沼におけるフカヒレ事業は、最大の危機に直面します。
幸いにも、基幹工場であるふかふか村はインフラ寸断による10ヶ月の操業停止とはなったものの、崖の上にあったことで大きな被害は免れます。
滉は、すぐさま東京・大井町に工場を借り、震災の翌月4月にはフカヒレの生産を開始します。震災で落ち着かない状況の中、東京へ出向いてくれた社員、その年の新入社員、この工場を提供してくださったお取引先の社長。そうした多くの方々に支えられて、最大の危機を乗り越えることができました。
あつらえ厨房シリーズ
人気店の味をどこででも
「あつらえ厨房シリーズ」
「お店に行けなくても、レストランでシェフの料理を食べるのと同じ感動を」「住む場所に関係なく、人気レストランの味を楽しめる商品を」
そんなコンセプトで開発されたのが、名店の名を冠する【あつらえ厨房シリーズ】です。
特徴は、なんといっても再現性の高さ。その味は、トップシェフたちも認める”味の再現技術”を持つ、当社ファクトリー『C’s Kitchen』で開発されました。
再現性の追求
シリーズの味を創り上げたのは『C’s Kitchen』の開発責任者。
開発の際は、シェフから貰ったレシピを一通り確認した後、まずは調理の現場へ。ただ『レシピ通りに作る』では、シェフの本当の味は再現できないからです。
実際にお店でシェフと一緒に調理をする中で、レシピには書かれていない、大切なピースを集めていきます。
設備、使っている調味料(レシピには市販調味料の銘柄が書かれていても、実際にはそこへ独自のアレンジを加えたものが使われている、というような事も…)、火加減やタイミングなど、現場で見て感じてこそ分かる部分も多いもの。感覚的なところまで掴むことが、トップシェフも認める再現性の高さに繋がっています。
素材や調理にとことんこだわり、際限なく再現性を追求した【あつらえ厨房シリーズ】。
日本中どこに住むお客様にも、本当に美味しい中華を楽しんでいただきたいという願いを込めた商品です。
C’s kitchen
新たな事業展開へ
東日本大震災が発生する2ヶ月前のある日の会議室。三代目 滉はC’s kitchen構想を幹部社員たちに話していました。
「近い将来、2つの理由でディナーレストランは先細る。一つは、人手不足。もう一つは、外食志向の低下。中華食材をホテルや専門料理店向けに販売するビジネスは、なくならないまでも必ず縮小する。しかし、胃袋が減るわけではない。消費される場所や形態が変わるのだ。だから我々は、これまで60年余り積み重ねてきた資産を活用して、中華以外の市場に中華の種を撒き、それを育て花を咲かせていかねばならない」と。
新たな事業展開へ乗り出す決断でした。
その矢先、気仙沼工場が被災しC’s kitchen構想は一旦棚上げされますが、翌年には構想の実現に向けて、開発製造拠点C’s kitchenの建設が始まります。そして、未来予測に自信を持って迎えた2013年の竣工の日。恐ろしいことに何一つ受注案件がなかったのです。
仕事のないまま2ヶ月ほど経過した頃、ファストフード店からのフカヒレスープの案件を受注します。C’s kitchen第1号案件でした。その後も不安定な状況が続き、前途多難な船出となったのです。
そんな厳しい船出を強いられたC’s kitchen構想。その後、再現性の高い中華総菜の開発製造に力を注ぎ、ホテルの宴会を中心に人手不足を補う商品の展開を始めます。同時に、コンビニやスーパーからの総菜開発の依頼が舞い込むようになり、中華以外の販路の芽が出始めます。
今では、自社工場の稼働率が300%を超え、外部の協力工場への製造を委託するほどにまで事業は成長しています。
80C
新たなWEBメディアの創刊
惜しまれながら廃刊となった料理見聞のアイデンティティを受け継ぎ、WEBメディアとして装い新たに創刊した80C。創刊の背景には、2000年以降、中華業界が直面した氷河期とも言える陽の当たらない寒々しい時代があります。
栄華を極めた大型高級店が次々と姿を消し、雑誌で中華特集を目にすることもない辛く受け入れ難い時代。“誰かに盛り上げてもらう”のではなく“自らが盛り上げる”しか方法はない。
三代目 滉は、一人でも多くの人に中華の面白さに触れていただき、中華好きになってもらうことこそが中華復活の近道であると考え、顧客や食業界のみならず食が好きな人たち全員が楽しめるメディア作りを目指そうと決めます。
中華が大好きなメンバーが織りなす80Cの世界をぜひお楽しみください。
わかば食堂
若手の課題解決に目的に
わかば食堂とは、中華料理店で働く35歳以下の若手が弊社C’s kitchenで一日料理長を務める課題解決を目的とした週一開催の企画型レストランです。
この頃、中華料理店では、若手が定着せずに辞めてしまうことが問題となっていました。オーナーや料理長からも悩みを聞かされていた三代目 滉は、そもそもなぜ辞めてしまうのかを考え、その答えを『ゴール』と『現在地』の2点が揃わない迷いから生まれる諦めだと結論づけます。
若手に話を聞くと将来の目標である『ゴール』を持っていることを知り、ならば『現在地』を知れる機会を作ろうとわかば食堂を企画。一日料理長を務める若手料理人は、決められた原価とコースの枠組みの中でメニューを組み立てます。当日は、2時間半前に厨房に入り開店に向けた支度をします。そこには弊社スタッフやアシスタントが配され自由に使えます。そして、厨房はダイニングから丸見えのオープンキッチン。料理の合間にはダイニングのお客様にご挨拶に伺います。
この過程で若手料理人は多くの気づきを得ていきます。『メニューが書けない』『原価計算がわからない』『前日はどこまで仕込めばいいのか』『人に指示ができない』『何から作ればいいのかわからない』『お客様の反応が気になる』『何を話せばいいのか』。営業終了後に行うまかないを囲んでの反省会では、自分が何ができて何ができなかったのかを振り返り、現在地をはっきりさせていきます。
こうすることで、ゴールに向けての課題が明確になり、料理長とともに優先順位と行動計画を立てて一段づつ階段を登っていけるのです。
もう一つの目的
こうした若手を育成させる目的のほかに、もう一つわかば食堂には大きな目的がありました。
それは、私たち中華・高橋の近隣にお住まいの方々への還元です。今でこそ清澄白河はお店も増えておりますが、わかば食堂開始当時はランチを楽しむお店などほぼ皆無。そこで、東京中の名店の味(と言っても若手なのでバラツキはありますが)が食べられるお店があったら皆さん楽しんでいただけるだろうな、と。
予想は的中。毎回多くのお客様が開店前から行列を作って、笑顔で楽しんでくださいました。
来店のお客様には若手料理長への叱咤激励を目的とした『わかば通信簿』なるものをご記入いただいておりましたが、本当に愛情を込めてご記入くださるお客様が多く、今でもそれを大切に保管している若手料理人がたくさんいます。
これからも多くの若手料理人が活躍されることを期待しています。
たけのこ水煮
自社直輸入「たけのこ水煮」
食の安心安全、環境配慮などの観点から、缶からパウチへ切り替えを行った商品です。
また、それまで当社で扱うたけのこ水煮製品はすべて商社からの仕入品でしたが、容器包装切り替えのタイミングで、自社直輸入の開始を決定。より高い安全性を確保し、高品質のものを出来るだけ低価格でお客様に提供したい、という思いから決めたことです。
中国の筍メーカー20社以上をピックアップし調査、現地視察も念入りに行い、現在のメーカーとの取引をスタートさせました。
缶→袋包装へ
当時、廃棄や開缶時の硬質異物混入リスク等の問題から、缶から袋包装へのパッケージ切り替えの動きが徐々に広まりつつありましたが、その動きは食品メーカーなどが主。当社のパウチたけのこ商品も、最初は大手食品メーカー向けのみの製造でした。
しかし、レストランでも、同様のスペックのもの・食品メーカーと同じレベルで安心安全や環境に配慮した商品を使っていただくべきと考え、レストラン向け商品も開発することに。
お客様にとってより使いやすい商品を目指し、サイズや形状など意見を集めながら開発、お客様へ缶からの切り替えをご提案していきました。慣れた缶からの変更に、最初こそ多少の戸惑いはあったものの、今では大変多くのお店に導入いただいています。
安心安全・環境配慮への意識
異物混入や原料のトレースバック、環境配慮など、厳格な基準で取り組む食品メーカー・大手外食チェーン等に比べると、どうしてもレストランではそれほどの意識を常に持つというのは難しいもの。当社は食材を扱う会社として自らの意識を高め、そうした品質を高めた商品を少しずつでも広めていければと思っています。
羊名人
羊肉を手軽においしく「羊名人」
「羊肉を手軽においしく食べる」を開発コンセプトに企画した中華系羊肉用特製クミン塩です。中華・高橋が運営するメディア・80C(ハオチー)が2014年に企画、味の監修に飄香の井桁良樹オーナーシェフを迎え開発しました。もともとは羊フェスタ(※羊齧協会が主催する羊好きのための食フェス)限定販売でしたが、人気の高まりを受けて2019年夏より全国展開いたしました。
ふりかけるだけの手軽さと羊肉のうまみを引き立てる絶妙な味で羊好きの心を掴み、少ない数ながらも初回2014年の羊フェスタではすぐに売り切れ。羊フェスタの盛り上がりに伴い、羊名人の製造数も年々増やしていきましたが、事前予約注文でほぼ売り切れてしまうような状態が続きました。
ついに一般発売へ
そんな状態が数年続いたのち、羊肉が世間にずいぶんと広がりを見せスーパーでも手に入りやすくなった頃、ついに羊名人を一般向けに発売することに。市販化に向けて、原材料や配合を改めて見直し、現在の羊名人が完成しました。羊フェスタでしか出会えなかった幻のスパイスを一般の方にも広く楽しんでいただくことができるようになったのです。
一般発売開始後も、SNSでも盛り上がりを見せるなど、多くの方々からご支持をいただきました。なんといま当社には、羊名人をきっかけに入社した社員もいるんです!
元々の羊肉好き・中華好きのみならず、幅広く羊肉や中華に興味を持っていただくきっかけともなった、裾野を広げてくれた商品です。
海老フリッター
絶妙バランスの薄衣
「海老フリッター」
極めて薄い、絶妙なバランスの衣が特徴の当社オリジナル海老フリッター。海老本来の食感や味わいをしっかり活かした美味しさが人気です。
前身は、当社の製造拠点【C’s Kitchen】で製造していた、オリジナルエビチリ専用の揚げ海老。製造量増加に伴うタイ工場への委託を機に、本製品の開発に至りました。
タイ工場へレシピを伝える際、何より苦戦したのが、この商品の特徴でもある薄衣。何度やり取りしても、出来上がってくるのは理想にはほど遠い、コートのようにぶ厚い衣をまとったフリッターでした。通常の市販品は厚めの衣が多いこともあり、タイ工場の人は薄い衣というものに馴染みがなかったのです。
そんな問題にぶつかりながらも、調整に調整を重ね出来上がったのが、まるで高級中華料理店で出されるような、この薄衣の海老フリッターです。
お店のサポートができる商品を
元々は当社のエビチリ用に作ったものでしたが、本当に美味しい海老フリッターが出来たからこそ、業務用の販売を決定。一から揚げ海老を作る手間を省き、人手不足やロスなどに悩むお店に役立ててほしいという思いで発売した商品です。
中華・高橋ではこのような、お店の課題解決のサポートができる商品を今後も開発していきたいと思っています。
よだれ鶏のたれ
口コミで大人気に
「よだれ鶏のたれ」
2017年に発売後、口コミであっと言う間に広まり大人気となった商品。
おかげさまで累計販売数は28万本を突破!一番売れているよだれ鶏のたれです。
ご存じの方も多いかもしれませんが、よだれ鶏とは、その香りや辛さ・旨みから「思い浮かべただけでよだれが出るほど美味しい」と名がついた四川料理の一品。本場四川はもちろん、日本の中華レストランでも大人気のメニューです。
今となっては5本の指に入るほど有名な中華メニューとなったよだれ鶏ですが、『よだれ鶏のたれ』を発売した当時は、一般的にはまだまだ認知されていませんでした。
四川料理店などではメニューにあり、輸入品のよだれ鶏のかけダレも市販されてはいましたが、日本人が素直においしいと思える味付けには遠いものばかり。中華料理を食べ慣れた当社社員でも馴染みづらいものがほとんどでした。
よだれ鶏をもっと楽しんでほしい
当社のスローガンは”日本の中華をもっと楽しもう!”。
よだれ鶏というメニューも日本でもっと広く楽しんでもらえるようにしたい、という思いからよだれ鶏のたれの開発をスタート。
「日本人が一番おいしいと思うのはどういうものだろう?」と考えに考え抜いて出来上がったのが、この『よだれ鶏のたれ』なのです。
こうして生まれた『よだれ鶏のたれ』は、よだれ鶏はもちろんのこと、冷ややっこや茹で上げ麺・しゃぶしゃぶなど、何にかけてもとにかくおいしい万能調味料。ご家庭の食卓の盛り上げ役としてみなさまに愛されています。
気仙沼工場
サメ肉の市場を広げるために
『陽の当たるサメ』『サメに市民権を』『サメ全体の有効資源化』。
三代目滉は代表就任当初からさまざまな表現を用いて、フカヒレだけではなくサメ全体、特にサメ肉の高付加価値利用の必要性を訴えてきました。フカヒレ工場の片隅や他社との連携のなかでサメ肉製品の開発や生産に取り組み、長年のヒット商品であるシャークナゲットを生み出したり、食の一大イベントであるFOODEXへサメ肉主役で出店したりと、フカヒレ屋としてそれなりに取り組んできた自負がありました。
しかし、東日本大震災によって自身の取り組みの半端さに気付きます。ヨシキリザメの魚価は大暴落。なかなか戻らない価格に苦しむ漁業者。滉は、魚価を上げることこそが自分の使命であると再認識します。
そもそも、なぜサメ肉の市場は広がらないのか?なぜサメ肉は安いのか?この問いに正面から向き合い解決するためには、自分を追い込む必要がある。言い換えるとリスクを取る必要がある。そこで、サメ肉専用の工場の建設を決意します。
サメ肉の市場が広がらないのは、サメをサメとして食す市場がないから。サメ肉は主にはんぺんの原料としてそのほとんどが有効活用されていますが、誰もはんぺんがサメ肉だとは知りません。また、はんぺんの原料であるすり身は、魚の活用方法としては最も価値の低い使途となるため安くなります。したがって、サメをサメとして食す市場の創造、つまり切り身や刺身としての流通の確立こそが最適解だと考えました。
まず立ちはだかるのが臭いの問題。
サメは鮮度が悪くなるとアンモニアなどの臭いが強くなり切り身や刺身で食べるには相応しくないものになります。その対策として、多くの事業者が脱臭技術の開発に取り組むなか、滉は臭いの出る前の鮮度の良いものだけを選りすぐって活用していく手段を選択します。
漁業者と組んで、漁獲後の管理方法や経時変化の調査研究を繰り返しおこない理論値を割り出します。その管理基準のもと生み出されたのが『ピーチシャーク』。綺麗な薄桃色でふんわりとした食感が人気です。
気仙沼工場の正式名称は、気仙沼工場 SHARK R&D CENTER。
ただ単にサメ肉加工をする工場ではなく、サメ肉の可能性を追求する研究開発拠点としていくことの必要性と想いを込めています。サメは気仙沼の水産業を支える最も重要な魚。さらなる有効活用を目指します。
心斎橋古樹軒
フカヒレを身近に、さらにおいしく
顧客の課題解決をするためには自らが同じ立場になることが一番の近道である。
そう考えた三代目 滉は『フカヒレを身近に、さらにおいしく』をコンセプトにした飲食店をオープンさせます。
人材不足を補うための加工品開発、集客のためのPRやSNS活用、人材採用の工夫、販促や優良顧客づくり。多くの飲食店が課題としていることに自らが向き合い、失敗を繰り返しながら最適解を導き出し、その成功や失敗の事例を取引先へと共有し経営の参考にしていただきたい。
そんな想いでスタートした矢先にコロナ禍へと突入。まさに顧客が直面する未曾有の課題を、私たちも同じ立場で体験ができるという貴重な機会に恵まれました。
飲食店経験のない私たちですが、これからも多くのトライを重ねながら最適解を提供したいと考えています。
てまなしモウカ排翅
フカヒレの”手間”を省く
その名の通り、厨房での”手間”を最大限軽減させることをテーマに開発された商品です。コロナ禍を経た、2021年に発売となりました。
コロナ禍の課題
フカヒレは本来、調理の前までにとても手間と時間のかかる食材です。
冷凍排翅でも、味付け調理の前に、ゆっくりと自然解凍してから長時間蒸す等の工程が必要。お客様に提供するには、事前の仕込みが不可欠です。
コロナ禍、外食機会は激減し、お客様にいつ来ていただけるかが全く予測できない状況となりました。もし来ていただけたなら売上チャンスは逃したくない、しかし仕込みをしてもお客様が来なければロスになってしまう…お取引先様の多くがそんな悩みを抱えていました。また、調理場の人員も削減している状況では、手間と時間のかかるフカヒレの仕込みは大きな負担になってしまいます。
環境に調和した商品を
”そのような悩みや課題を解決する方法はないか”
”いま求められている、この環境に調和するのはどのような商品だろう”
そんな風に考え生まれたのが『てまなしモウカ排翅』です。
長時間の仕込みは不要、解凍はぬるま湯やレンジアップでもOK。最短30分程度で解凍~提供まで可能なため、当日の急なご注文にも、少ない人手で難なく対応できます。
また、1枚ずつピースパックに入っているのもポイント。必要な時に必要な分だけを使えるので、ロスの問題も解消できます。
その使いやすさから、これまでフカヒレを扱ってきた中華の専門料理人はもちろんのこと、フカヒレに馴染みのなかった和食や洋食などの料理人からも喜ばれています。
中華・高橋は今後も、その時々の環境で求められるもの・環境と調和するものを見極め、お店の課題解決のサポートとなるような商品をつくっていきたいと思います。
料理見聞
画期的だった情報誌の配布
卸売問屋は食材の販売だけをしていればいいのか。國昭は己の役割について自問自答の日々が続いていました。料理人やオーナーが食材よりもっと必要としていることとは何か。足繁く顧客を回っていた國昭はその答えが『情報』であると気づき始めます。商品の市況や新商品情報、新店舗紹介や食材豆知識など、よく聞かれることを一つにまとめた情報誌を作成し毎月の配布を開始。
すると「こういったものが欲しかった!」と全国から歓迎の声が聞かれるようになり、かかる多額の費用は投資だと考え発行を続けていきました。
創刊当初、食品の業界誌はあれど中華に特化した情報は少なく重宝されていましたが、徐々に類似のものが増え始めたため1993年65号を持って廃刊となりました。
中華高橋水産
メーカー事業への転換
創業からの商いの中心であったフカヒレ。バブル期を経て空前のグルメブームが盛り上がった頃、フカヒレも多くのメディアで取り上げられ、一気に憧れの高級食材の座へと駆け上がっていきました。
かねてより問屋不要論を唱えていた國昭は、フカヒレの市場拡大を予想し、今こそ卸売事業からメーカー事業へと転換すべきであると考え、日本一のサメの水揚げを誇る宮城県気仙沼市に株式会社中華高橋水産を設立しました。60坪の小さな工場で産声を上げた國昭の考えるフカヒレ製造業。それは、卸売事業で培った顧客との接点から生まれるニーズやウォンツを製品へとスピーディに反映させるという誰もがなし得なかったことへの挑戦でした。
こうして中華・高橋は、製造から販売までを一気通貫で担う現在の事業モデルへと踏み出していきました。